われ ただ たるを しる
この言葉が書かれているものとしては、京都・龍安寺の「つくばい」が有名でしょう。
※よく見かける「吾唯足知」は実は誤りで、写真の「つくばい」に書かれている四文字を 上→右→下→左 と右回りに読むのは、漢文を知らない人です。
「知足」でなければ「足るを知る」と読めません。
私達は、欲望を無限に膨らませてはならない。
これで充分、つまり「ごちそうさま」と言える心のゆとりを持たなければならない。
「貧しい人」とは何も持っていない人ではなく、多くを持ちながら、「まだまだ欲しい」と満足できない人のことである。
……というのがこの言葉の意味ですが、この言葉について考えなければと思うことが、今年の9月にありました。
9月にリオデジャネイロでオリンピック、パラリンピックが行われました。
正直に言います。
僕は今まで自分が興味のある競技に関して、オリンピックは熱心に見ていましたが、パラリンピックはあまり見ていませんでした。
やはり心のどこかで、「特別な世界のイベント」という気持ちがあったのだと思います。
しかし、今回のパラリンピックはいろんな競技を見て、感じるところがありました。
それは、パラリンピックが開催される少し前に、我が家の愛犬が片脚を失ったからです。
それも人間で言えば肘から先とかではなく、肩から先全部です。
10月2日(日)の西日本地区大会前のブログで、
「なんか、最近いろいろ続くなぁと思います。ホントに。詳しくは、また時間があるときに書きます。今は余裕が無いです」
と書いたのは、このことだったのです。
我が家の愛犬が片脚を失ったのは、交通事故などではなく骨肉腫が原因でした。
ずっと片足を引きずって歩いていたので、ケガをしているのかと思って獣医に連れていったところ、骨肉腫だと判明しました。
肺への転移を避けるため、肩から先を全て切除しなければならないという、辛い診断結果でした。
幸い転移は無く、手術前よりも元気になり、散歩もちゃんとできています。
手術をしていただいた獣医さんには、感謝しています。
パラリンピックを見ていて、思いました。
例えば片脚が不自由な選手がいたとして、生まれつきそうだった選手もいれば、我が家の愛犬のように人生の途中で片脚を失った選手もいる。
考え方も選手それぞれで、いろんなものと必死で戦って、この舞台に立っているんだな、と。
我々健常者は、あまりにもわがままです。
目も見える
ちゃんと話せる
手足もある
指も全てある
思いきり走れる
にも関わらず、
今日は暑い
階段で上がるのはしんどい
この作業はめんどくさい
なぜやらなきゃならないのか
と、不平不満ばかり言っているような気がします。
物も豊かな時代に、健常者として何不自由なく生きている我々は、「吾唯知足」の精神を見つめ直してみる必要があるのではないかと思います。
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